文化服装学院の萌芽は大正8年(1919年)、第一次世界大戦が終わりを告げたころのこと。並木伊三郎が東京市赤坂区青山に掲げた「並木婦人子供服裁縫教授所」という小さな看板が始まりです。長年、婦人服と子供服仕立てに勤しんできた並木は、裁縫店を独立開店。子供服の急速な普及により技術者不足の問題を抱えていました。「洋裁技術の伝授は長期間の徒弟奉公より、もっと短期間に教えるべきであり、主婦の心得としても習得すべきではないか」と考え、洋裁教授の道を開いたのでした。
一方ミシン会社のセールスマンだった遠藤政次郎は、家庭婦人が洋服作りの知識に乏しく、ミシン利用の手段を失っているという事実に驚き、「適当な洋裁教授の機関を設けることが急務である」という思いを抱えていました。二人が出会い、「日本人の服装改革」について意気投合。日本人の衣生活が和装から洋装へ変わっていく未来を構想したのでした。
明治20年(1887年)、埼玉県生まれ。幼少期より裁縫に異常なまでの興味を示し、明治36年(1903年)、戸板関子女史の紹介によって、明治の三代仕立屋のひとりである「飯島婦人洋服店」に入門。18年間に渡って婦人服と子供服仕立ての経験と技術を深めました。大正8年(1919年)独立開店。並木婦人子供服裁縫教授所を併設します。戸板裁縫女学校洋服科講師、シンガー・ミシン裁縫女学校の講師を経て、大正11年(1922年)文化裁縫学院を創立、校長に就任。洋裁の黎明期に、原型による教育システムを考え、服装教育の礎を築きました。昭和8年(1933年)、46歳で逝去。
明治27年(1894年)、岩手県生まれ。大正6年上京し、外国人の通訳となり、英語に興味を示す。同年、シンガー・ソーイング・ミシン会社入社。セールスマンとして活躍し抜群の成績を上げる。大正8年(1919年)、並木伊三郎と出会い、その学校運営を支援しているうちに、服装教育を自己の使命と考えるようになり、シンガー・ミシン社を退社。学校経営に専念する。学生募集のPR活動に努め、『服装文化』『装苑』『文化服装講座』などの出版事業を拡大する一方、連鎖校を育て、学院の組織化と隆盛に貢献。昭和35年(1960年)66歳で永眠。
大正11年(1922年)、東京市牛込区袋町に「文化裁縫学院」を開校。校舎は木造三階建。入学した生徒4名に、内弟子7名を加えた出発でした。翌年、東京府各種学校令によって「文化裁縫女学校」と名を改め、晴れて開校となりました。
昭和30年(1955年)、日本建築界最初の高層円形校舎を完成。落成式には、学生、卒業生のほか建築、繊維、実業界の各界からの来賓も含め15,000名余りが列席。盛大に式が執り行われ日本国中で話題となりました。
日本人に洋装が浸透していったのは、第一次世界大戦後のこと。「婦人子供洋服店」の看板が町中に見られるようになり、特に子供服は急激に需要が伸びました。その結果洋裁技術者が不足し、洋裁教授所が各所に姿を見せるようになります。文化服装学院が日本で初めての本格的な洋裁専門学校として認可された大正12年(1923年)ごろは、洋装が最も盛んになりつつあった時代でした。同年9月の関東大震災によって服装の改善が必要に迫られ、その後婦人服の着用は著しく増えていきます。洋裁学校も増え、洋装界の黄金時代の到来です。
ローウエストにショートスカート、断髪にクロッシェが流行し、こうした新しい装いの女性たちは「モダン・ガール」、略して「モガ」と呼ばれました。まだ着物が一般的でしたが、洋装への理解も少しずつ広がり、「モガ」スタイルの教師陣は学生たちのファッションリーダーでした。写真は、卒業制作の洋服を着た生徒たち。帽子も手作りで、精一杯の洋装記念にカメラにおさまる。
着物が一般的だった当時、教員たちは制作した作品を身につけ洋装理解を広げる役割も担っていた。この時代、ローウエストにショート・スカート、断髪に、かぶとのような深い帽子が流行し、こういう服装で街を闊歩する女性たちはモダンガール、略して”モガ”と呼ばれた。教員の中にも”モガ”スタイルが多く見られ、生徒たちにとっての憧れの対象だった。
洋服裁縫技術を指導するための独自のシステムとして、創立者、並木伊三郎によって考案された創立時代の原型。専門家による裁断法に工夫を施し、人体の寸法や体型の特徴を平面上に展開した原型を型紙制作の基本とすることで、多くの服種への応用発展が簡単にできるようになりました。この考えは現代も受け継がれ、変化する体型に合わせ、その時代ごとの原型が研究し作られています。
昭和9年(1934年)、「文化裁縫女学校出版部」が開設され、現「文化出版局」の前身となりました。増加した生徒に教育上対応するためには出版物が有効で、教科書として使用できるだけでなく、一般に向けた服装教育の普及と服装文化の向上を目的としました。
戦後、復刊第一号の『装苑』では、「新生日本の服装のあり方について」という特集が組まれ、各方面からの意見が紹介された。戦争により中断されていた洋装への熱は、講習会や洋裁学校の前に長蛇の列をなし、『装苑』も瞬く間に完売になった。
昭和10年(1935年)より11年にかけて『文化洋裁講座』全6巻が完成。文化式服装教育の集大成とも言うべき本書は、通信教育でも利用され、学校の名を業界のトップに押し上げました。
戦後の占領下の日本には、進駐軍とともにアメリカのファッションや文化が流れ込んできました。若い女性たちはミリタリー・ルックを更生服に取り入れ、ブラウスにもセーターにも肩パットを入れるようになります。復刊間もない『装苑』はこのアメリカンスタイルを盛んに掲載し、学院でもこの新しいラインの研究をしました。一方で昭和22年(1947年)には、パリで新人デザイナー、クリスチャン・ディオール氏が華々しくデビューを飾り、パリのモードは世界の注目を浴びるようになります。まろやかな肩のラインや流れるフレアのロングスカートを持つニュールック。パリからのニュースもまた、服作りの重要なデザインソースとなっていました。
デザインはシルエットに始まりシルエットに終わる。教科書『文化服装講座』デザイン編より。
服装教育のニーズが増え続ける中、文化服装学院の卒業生にも地方に帰り学校を開く者が多くいました。地方においても文化服装学院と同等の教育効果が得られるシステムを構築するため、昭和23年(1948年)に連鎖校制度を設立。1960年代には連鎖校の数も海外を含み362校にまで増え、文化式服装教育は全国組織へと発展していくのです。
昭和に入り技術の時代となりました。文化服装学院の技術の源流は、創設者並木伊三郎が習得した、洋服店の職人技術。老舗の仕立屋出身の教員も多く、その職人気質の技術を大切に伝えようと実習科が誕生し、教室で秘儀を伝授するようになります。そして戦後は、欧米からの情報も解放され、新しい刺激にあふれた意気盛んな時代が始まります。グラフィック・デザイナーが活躍するようになり、服飾デザインの領域でも、デザイナー養成に向けた専門教育の必要性が求められるようになっていったのです。
遠藤政次郎学院長により学友会が誕生。学院の教員とクラスの代表員による学友会が発足され、コンクールや発表会などの活動を盛んに行った。
服飾の分野のデザイナー養成に向けて、より専門的な教育が必要とされるようになり、新しいカリキュラムが求められるようになりました。そこで昭和26年(1951年)、デザイン科が発足。各芸術分野から豪華な講師陣を招き、デザインの発想から展開を試みる新しい服作りの研究をする科が誕生しました。1970年代に入ると、大量生産・消費の社会を背景にファッション界はプレタポルテの時代に。学院も二度の教育改革を行います。昭和51年(1976年)には専修学校法を契機に、服装専門教育の新しいあり方をより一層検討した教育方針の三本柱を打ち出しました。
-
昭和26年(1951年)、デザイン科発足。当時、教員がデザイナーを兼任していましたが、学院ではいち早くデザイナー養成の必要性を感じ、日本人デザイナーの育成に力を入れることにしました。
戦後、グラフィックデザイナーとよばれる人々が登場してきたのに対し、服飾のデザイナーは文化服装学院の教員たちが兼務し、「主婦の友」「婦人倶楽部」などの婦人誌や、「装苑」などのファッション誌で服のデザインを発表していた。服飾分野のデザイナー養成に向けた専門教育の必要性を強く感じ、約1年の準備期間を経て、昭和26年、デザイン科が発足。やがてこの中から、世界に羽ばたく日本の服飾デザイナーたちが巣立って行った。
昭和29年(1954年)に渡欧した小池千枝教員(後の文化服装学院学院長)は立体裁断を修得して帰国。割り出された原型をもとに平明的に作図する方法に対し、立体的なボディに布を使って、直接的にデザイン、カッティングする立体裁断を全学の学生に授業展開を行いました。企業側でもそうした技術を求められるようになっており、日本のアパレルのレベルアップに貢献することになりました。
昭和26年(1951年)、文化服装学院 文化祭コスチュームショーが始まる。木造建築が多かった当時、初のコンクリートの大講堂が完成。翌年には、全国の連鎖校を巡回し、日本中に服装理解を深めるための重要な役割を果たしました。
バザー、展示、各種催し物が行われる中、特にコスチュームショーは画期的なイベントとして好評を博します。最新の舞台設備と照明機材などを駆使して、今までにない演出のチャンスが到来しました。
昭和28年(1953年)、学院創立30周年記念行事としてクリスチャン・ディオール氏の一行を招聘し、東京、名古屋、京都、大阪でファッションショーを開催。ショーで披露されたパリ・モードは、服装界のみならず日本の社会に多大な刺激をもたらします。その後も多くのデザイナーが来日し、学院でショーを開催。学生たちは学院にいながら、海外の一流のショーを見て学ぶことができました。
昭和33年(1958年)にはフランスの新進デザイナー、ピエール・カルダン氏を招き、学院講堂でのショーとカルダン氏による立体裁断を公開する技術講習会を開催。日本の服飾界に美のカルチャーショックを与えることになりました。学生たちは客観的・主体的に服の良し悪しを理解していったのです。
-
昭和31年(1956年)、雑誌『装苑』の創刊20周年を記念して、「装苑賞」が創設。新人デザイナーの育成を目的とし、服装界に才能ある新人を送り出す登竜門となるべく誕生しました。
第90回装苑賞 公開審査の模様。
審査員は当時の服飾界の実力者が顔を揃え、学院からも教員が加わります。時代の気分を映しながら服はどうあるべきか、明日の服を作るとはどういうことか。熱気あふれる審査会場ではいつも、服づくりの姿勢が厳しく問われました。学生たちはこぞって装苑賞への応募を試み、挑戦者は年々増加。毎回のようにデザイン科の学生が入賞することは、デザイナー専門職をめざすクラスメイトたちに大きな刺激を与えることになったのでした。
-
昭和32年(1957年)、初めての男子学生が入学。7,000人の入学者の中に、23名の男子を迎え、マスコミの話題を集めます。遠藤学院長が抱えていたのは「世界の一流デザイナーやカッターは男性であるが、できるなら君たちを教師やデザイナーとして第一線で活躍する人に要請したい」という思いでした。男子学生はデザイナー志望が多く、入学願書にも、男子一生の仕事として職業意識が明確に記入されていたと言います。男子学生第二期の髙田賢三、松田光弘、そしてその後も多くの男子学生がデザイナーとして世界へ羽ばたいて行きました。
1957年、開校以来初の男子学生23名を師範科に入学許可。“女の園に男子入学” とマスコミの話題を集め、入学式に参列した男子の一列はフラッシュをあびた。男子の師範科入学2期生には、髙田賢三氏、松田光弘氏など、世界で活躍するデザイナーたちがいる。
左から 第7回装苑賞受賞作品/コシノジュンコ、第8回装苑賞受賞作品/髙田賢三、第24回装苑賞受賞作品/熊谷登喜夫、第25回装苑賞受賞作品/山本耀司 *文化服装学院卒業生の受賞作品一部
1970年代になると、モードのメッカであるパリへ渡る日本人が増加。厳しい社会情勢の中でも、パリで懸命に活躍する学院の卒業生も大勢いました。当時、日本人といえば「ケンゾー」と答えが返ってくるほど有名になった髙田賢三(デザイン科卒業)。目抜き通りに店を開き、イヴ・サンローランやソニア・リキエルと肩を並べるほどの大成功を遂げました。
小池千枝副学院長(後に名誉学院長)の渡欧の機会に、文化出版局パリ支局に集合した卒業生たち。長谷川豊氏、髙田賢三氏、熊谷登喜夫氏らの面々。
昭和54年(1979年)、遠藤記念館のこけら落としとして催されたのは、創設60周年記念「世界にはばたく10人のデザイナー」と銘打った卒業生のファッションショー。
ステージには各デザイナーのブランド名がネオンのように輝き、オープニングには髙田賢三の色彩鮮やかな服が花を咲かせました。続いて長谷川豊、坂出忠臣、鈴木紀男、松田光弘(ニコル)、山本耀司(ヨウジヤマモト)、コシノヒロコ(ヒロココシノ)、コシノジュンコ(ジュンココシノ)、北原明子(マイン・メイ)、金子 功(ピンクハウス)が華やかなショーを披露。在校生の憧れの的である彼らは、ショーを通じて後輩たちに大きな感動を与えたのでした。
文化服装学院創立60周年記念を祝し、開催された卒業生によるファッションショー。
昭和55年(1980年)、従来の服飾全般の知識と技能を学習する課程である「服飾専門課程」、服飾を商品として生産する各部門の専門的知識・技術を教え、アパレル産業界で活躍する人材育成を目的とする「ファッション工科専門課程」、産業界の流通機構に対応できる人材を養成する「ファッション流通専門課程」。昭和58年(1983年)に「ファッション工芸専門課程」が加わり、現在にも受け継がれています。
平成10年(1998年)、昭和30年(1955年)に日本建築界最初の高層円型校舎として完成し、文化服装学院のシンボルとして長年使用されてきた校舎に代わり、22のフロアを持ち、ファッション教育に必要な専門施設を有した現在の校舎が完成しました。
21世紀に入ると、クリエイターや企業、海外のアート・ファッション大学と、さまざまなコラボレーション企画が実施されてきました。平成16年(2004年)の「クサマトリックス:草間彌生」展では、アーティストとの一大コラボレーション「クサマヤヨイの前衛ファッションショー」を実現。草間世界にインスパイアされた学生たちのデザインが草間氏自身に選択され、トワルチェック、素材や色の打ち合わせ、コーディネートチェックなど幾度もの打ち合わせを経て衣装を製作した上、六本木の街をジャックして大喝采を浴びました。
草間彌生と学院の学生百数十名によるコラボレーションショー『クサマヤヨイの前衛ファッションショー』が『クサマトリックス:草間彌生』展のオープニングとクロージングを飾り話題となった。
昭和50年ごろまでは、デザインの主力は教職員で、縫製、モデルを学生が担当していたが、昭和52年(1977年)よりに文化祭ショーのあり方も大きく変わり、学生たちのが中心となってデザイン、舞台、照明、演出、モデルほか運営のすべてを手がけるようになりました。
昭和59年(1984年)からは、旭化成、三菱レイヨン、東レなど日本を代表するテキスタイル会社ほか、海外のテキスタイル産地の後援を受け、毎年約2万人が来場する業界でも注目のショーとして成長しました。
平成19年(2007年)の文化祭ファッションショーでは、オーストリア造幣局から貸し出された「ウィーン金貨」がちりばめられた黄金の衣装を披露。
文化祭ファッションショー『neo-solid I.D.』。シーンテーマは『pierrerevanche』。オーストラリア造幣局とのコラボレーション。本物の記念金貨をあしらった衣装が話題となった。
平成27年(2015年)の文化祭ファッションショーでは「ASEAN」をテーマにした企画が組まれ、担当の学生がアセアン加盟国を訪問し、それぞれの国が誇る伝統的な素材を調達して衣装を製作しました。これからもさまざまな可能性を実現しながら、学生たちの個性が花開く場として文化祭ファッションショーは発展し続けるでしょう。
文化祭ファッションショー『綴りゆくカタチ』。国際機関日本アセアンセンターに協力いただき、アセアン加盟5カ国を学生が訪問し各国の伝統的な素材を用いて作品を製作。
文化服装学院は、平成27年(2015年)、ロンドンを拠点とするウェブ媒体「ビジネス・オブ・ファッション」が発表したグローバルファッションスクールランキングで世界第2位に選ばれました。海外からも常に高い評価を得ているのは、文化服装学院が歩んできた歴史と教育方針への信頼、そして将来への期待の証と言えるでしょう。
創立以来、日本のファッション教育の中心的な存在として、産業界と密接に連携し、その発展とともに進んできた文化服装学院。日本のファッション教育をリードする立場から、企業との共同研究をはじめ、産・官・学による多くのコラボレーションを展開するなど、時代に即応した新しいファッションの形を探求しています。一人一人の個性と感性を磨き上げ、世界で競争できる高い知識と技術の習得をめざすことで、国際舞台で活躍できるクリエイターが誕生し、日本のファッションは進化していくのです。